ルーブルアブダビで 映画『かぐや姫の物語』を鑑賞した感想。



現在、ルーブルアブダビでは、JAPANESE CONNECTIONSという企画展を開催しています。
浮世絵の展示から、日本画にインスピレーションを受けた海外のアーティストが手がけた作品、MANGAのワークショップまで、様々。かなり大がかりです。

そんな中、無料で映画上映もやっているのですが、『かぐや姫の物語』を鑑賞してきましたので、その感想を記したいと思います。初映画レビュー。

皆さまご存知スタジオジブリの作品で、故・高畑勲監督のもと、8年の年月と50億円もの費用をかけて製作された映画です。

 

ちなみに、かぐや姫は、子供の頃に絵本で読んだくらいのもので、あらすじがおぼろげに浮かぶ程度です。故、原作との整合性にこだわりはありません。

また、なんと英語吹替だった為、台詞や歌の意味もなんとなく掴む感じでした。(ただ、吹替の声優さんも演技力に申し分なし。特に歌声は素晴らしかったです。) 故に、勘違いも多々あるかも知れません。

 

その前提で読んでいただければ幸いです。尚、ネタバレ多数です。

 

映像作品としての感想

 

開始15分、その表現力に圧倒されました。正直舐めてました。

水彩画のような画風で、あれほど滑らかな映像が展開されるとは思っていませんでした。

例えば、幼いかぐや姫が、はいはいをはじめ、カエルと戯れるシーン。

ただそれだけのシーンですら、子供の丸みある動き、成長、予測できない行動、そしてそれを見る親の喜び、これを観る者に納得させる、思い出させるに十分な描写。この1シーンだけで金が取れるぞ。

日本の自然、そして平安文化が織り成す、素晴らしい色彩表現。生き物の愛らしさ。

村の農民や、都の貴族の生活に表れる、生活音、そして所作の美しさ。文化教材としても活用できそうなほど、多くの学びと気づきがあります。

これだけの「表現」をするのに、製作陣はどれほど「観察」してきたのか、途方も無い作業だったと思います。

圧倒的なだけに、製作陣の狂気すら感じました。

狂気と言えば、CMにも使われた、かぐやが疾走するシーン。あのシーンは実際に狂気じみていますが、かぐや姫の表情には製作陣の執念(怨念?)のようなものがそのまま表れているような気がしました。

 

物語としての感想

 

まず現在イスラム圏にて生活している身からすると、改めてこの物語を読むと、平安時代に「女性が帝・皇子の求婚を断る」お話というのは、物語として禁じ手ではないかと思いました。

この国でいえば、「UAEの大統領との縁談を断る女性のお話」ということになるわけで、例えばそのような話を綴って出版でもしたら、罰せられてもおかしくないでしょう。子供の教育に悪すぎる(笑) 
平安時代、もしくはその後の日本も同じような価値観でしたでしょうし、よく現代まで、この物語が受け継がれてきたなと、今更ながら驚きました。

ちなみに、ナンセンスな比較ではありますが、英語吹替版ですと帝のことは「His Majesty」と表現されるのですが、要はUAE大統領「His Highness」よりも偉いということで、なお更ヤバいですよね。

ですが、『かぐや姫』の原作では、何で縁談を断ったのか、ということ含め、かぐや姫の行動全般についての理由の説明が無かったように記憶しています。一方で周りの登場人物の行動原理は至ってシンプルなのですが。

なぜ縁談を断ったのか?なぜ月に帰ったのか?

これらの行動の理由付け、解釈を、今作で高畑監督が試みたということだと思います。

 

この解釈は、「かぐや姫はなぜ月に帰ったのか?」からスタートしているように思います。これを起算として、全ての行動を解釈していったのではないかと。

 

まつだが観た限り、その答えは…

 

「帝にセクハラされて感情が爆発したら、思わずそれが月に届いて、迎えが来ちゃった。キャンセルできないどうしよう…。」

 

と、いうことでした。(おいおい、今までの感想台無しだよ)

何ともチープな答えになってしまいましたが、その突発的(?)な感情起算で、過去(思わず感情が爆発してしまった経緯)と、未来(二度と引き返せない、月への帰還)が描かれたのではないかと、ぼくは理解しました。

 

この感情の爆発に至らせる為に、都に移動した後のかぐや姫は政治(?)の道具、性の対象として徹底的に描かれます。まるで、フェミニズムを描いた作品の如く。
お爺さんは良い縁談をモノにしようと奔走し、貴族は「美しい姫」という伝聞だけで求婚し、帝はその立場・プライドを以って姫を手に入れようとする。

それに加え、「良い家に嫁ぐのが女の幸せ」という価値観が根付いた歴史背景。故に、お爺さんの行動も全く利己的とも言えない。現代であれば「良く知りもしない男と結婚するのは嫌だ」という思いは当たり前のことですが、この世ではそれが通らない。

どうしてもその価値観を受け入れられないかぐやは、ふるさとの村まで疾走し、貴族に無理難題を吹っかけて求婚を拒絶し、帝からの求婚にはなんと自殺をほのめかす発言まで。

それに加え、村娘だったかぐやが「姫」になるにつれて失ったもの。自由に駆け回ることはできなくなり、歯をみせて笑うことは禁じられ、村の子供と戯れていたら母親に土下座で謝られる。居場所に拒絶されたような感覚。

 

そのようなことが積み重なったある日、帝に後ろから抱きしめられた時、嫌悪感が、絶望が爆発する。

その爆発が、月からの迎えを呼び寄せることになる。

つまり、村で幸せに暮らしていれば、一生迎えは来なかったかも知れないのだ。

一度呼んでしまったら、月に帰る以外に選択肢は無い。自らの感情・行動が生んだ結果とはいえ、後悔先に立たず。覆水盆に返らず。かぐや本人も、お爺さん、お婆さんも。地球での生活の良い思い出や、真の友人ばかりが思い出させる。

それでも、定められた未来に進むしかない。起こってしまったのだから。

 

上映中は、これを観たアラブ人女性に感想を聞いてみたいというような程度の感想しかありませんでしたが、上映終了後は、環境はどうあれ、自らの行動が起こした結果への責任というか、そういうことを鑑みたりしました。

兎に角、個人的には印象に残る作品でした。画風こそ違えど、これこそ正統派な、スタジオジブリの作品のように思いました。

 

ただし、これだけは文句を言いたい!

村の初恋相手(妻子持ち)とのランデブーはいらん!不倫やぞ!かぐや姫の格が下がるわボケ!しかも二人して空を飛ぶな!ファンタジーは最後の月からのお迎えシーンだけで十分じゃ!

 

 

この怒りが月からの迎えを呼び寄せるとは…まつだはこの時想像も(略)




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA